毎年6月23日は何の日かご存知ですか❓|外壁塗装・屋根塗装は阪南市の【てんとう虫ペイント】にお任せください。

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毎年6月23日は何の日かご存知ですか❓

2026年06月11日 10:54:00

答えは「沖縄・慰霊の日」。




毎年6月23日、沖縄は「慰霊の日」を迎えます。 

沖縄県内では公休日となり、糸満市摩文仁(まぶに)の平和祈念公園をはじめ、各地で戦没者への追悼と平和への祈りが捧げられます。

このブログの著者"スタッフN"は、ウチナー(沖縄)二世です。
こけしみたいに凹凸のない顔なので、沖縄の血が流れていると言うと驚かれます(笑)
その分の〖ウチナンチュ(沖縄人)の独特の濃さ〗は、現在中学生の息子に ″毛″ となって隔世遺伝で受け継がれました🥸
まつ毛も眉毛も髪の毛もふぁさふぁさで、細い体に似合わない毛量に『こんなところに沖縄の血が』と親子で思っています(笑)
沖縄を愛してやまない息子は、それがまんざらでもない様子😄

20代の頃、7年程沖縄に移住していた経験があり、今でも友人はウチナンチュ(沖縄人)の方が多いくらいです。
そんな"スタッフN"は、太平洋戦争とは切っても切れないルーツを持って存在しているので、毎年6月23日の正午を、リマインダーが知らせてくれるようにセットしています。
その時の状況が許せるのであれば、沖縄に思いをはせ、黙とうしています。ウートートーアートートー🙏🏻

もう少しで、今年も6月23日がやって来ます。

今から約80年前、あの美しい島で何が起き、人々の営みの象徴である「家」や暮らしはどう破壊されたのか🏚️💥💣
今回のブログでは、 屋根・外壁塗装のプロとして、そんな戦前~戦後の沖縄の住宅事情にスポットを当て、わかりやすくご案内したいと思います。
沖縄戦を深くは知らない方も、今一度、思いをはせて頂けたら幸いです。

しばしお付き合いください。

※このブログを書くにあたり、親戚に聞いた話や今までに読んだ文献を思い出したり、沖縄公文書で調べたりしながら"スタッフN"なりに色々と調べてはいますが、間違っている情報があるかもしれません。
また、分かりやすくお伝えするために、厳密には違う言い回しや例えもございます。
そこは何卒ご容赦くださいませ<(_ _)>


🔎関連ブログ⇒黒く塗られた家と竹の雨どい。戦時中の外壁と屋根の話🏚️


↓↓↓

 🚢「鉄の暴風」がすべてを奪った、沖縄戦💥  

1945年3月末、米軍の凄まじい砲爆撃とともに始まった沖縄戦は、一般市民が巻き込まれた 国内最大規模の地上戦となりました。

💥「鉄の暴風」と称された猛攻撃 🌪️


米軍が撃ち込んだ砲弾・爆弾の数は、当時の沖縄の人口1人あたり数発分とも言われ、地形が変わるほどの破壊力でした。

💥 住民を巻き込んだ凄惨な結末 😢

軍人だけでなく、多くの一般住民が戦闘に巻き込まれました。
その犠牲者数は何十万人にも上ると言われています。
"スタッフN"の祖父母の親戚も例外ではありませんでした。

住民たちは「ガマ」と呼ばれる自然の鍾乳洞(洞窟)や、一族の巨大なお墓(亀甲墓など)に身を潜め、極限の恐怖の中で息を潜めて終戦を待つしかありませんでした。

「ガマ」とは、内地でいう防空壕の役割をした鍾乳洞(洞窟)ですが、内地と大きく違うのがその岩の地質です。
内地はつるつるしたイメージのある鍾乳洞ですが、沖縄では主にサンゴ礁などが堆積してできた「琉球石灰岩」で出来ていて、おろし金やカミソリの刃、あるいは無数の牙のように尖った複雑な形をしてします。
少し触れて体重がかかるだけでも、刃物で切ったかのように深く皮膚が裂けてしまいます。

"スタッフN"が沖縄でのスキューバダイビングの最中に、急に荒れだした波や海中のうねりで石灰岩に打ち付けられて、5ミリの厚さのウェットスーツが裂けて大穴が空いた経験があるほどの鋭さです🫣


 🏚️焦土と化した島。人々の「家」はどうなったのか?🔥 

戦前の沖縄には、自然と共存する美しい風景が広がっていました。
意外かもしれませんが、戦前までは瓦屋根にできるのは一部の裕福な農家や町屋だけだったそうで、一般庶民の家のほとんどは茅葺きの平屋でした。

🏚️焼き尽くされた「生活の場」

激しい空爆や艦砲射撃、そしてアメリカ軍上陸後の火炎放射器による攻撃により、歴史ある建造物や燃えやすい民家は瞬時に焼失しました。

🏚️「規格家(きかくやー)」からの再出発

生き残った人々を待っていたのは、帰るべき家を失った現実でした。
諸説ありますが、沖縄戦によって、県内の全住宅の約92%が消失したと言われています。

人々は、米軍から支給されたテントや、軍の廃材(トタン板や空き缶の鉄板など)をかき集め、「規格家(きかくやー)」と呼ばれる簡易住宅を建てました。
沖縄の言葉で「家」を「ヤー」と呼ぶことから、「規格家(きかくやー)」と呼ばれていました。

戦後の沖縄の住環境を語る上で欠かせない、この「規格家」 を深掘りしてみましょう☝🏻


 🛖「規格家」とはどんな構造?🛖 


当時は木材などの建築資材が圧倒的に不足していました。
そのため、以下のような非常に簡素で、かつ「誰でも早く組み立てられる」工夫がなされていました。
そのため、最終的に約75000棟が建築されたと言われています。

🛖 2×4(ツーバイフォー)工法の導入
アメリカ軍が持ち込んだ木材の規格(2インチ×4インチ)に合わせたプレハブ式の工法です。
DIYが流行りだした近年では、2×4(ツーバイフォー)という木材は、使い勝手のよい資材としてよく耳にする身近なものとなりました。

🛖 床面積の統一
あらかじめ家のサイズ(坪数)が一律に決まっていたため、「規格に沿った家 = 規格家」と呼ばれるようになりました。

🛖 あり合わせの建材
最初は壁にアメリカ軍のテント生地を張り、屋根は身近にある「茅(かや)」で葺く(ふく)という、非常にシンプルな掘立小屋に近いものでした(後に資材が普及すると、壁は板張り、屋根はトタンやセメント瓦へと進化していきます)。


メリットと弱点 

「規格家」は、戦後の沖縄を救った救世主でしたが、あくまで応急処置の住まいだったため、沖縄の過酷な自然環境には耐えきれないという弱点もありました。

⭕ メリット
工場で部材を加工して現場に送るシステムだったため、専門の大工がいなくても、地域の住民たちが協力し合う ″ゆいまーる″ の精神で、短期間で大量に建てることができました。

❌ デメリット
非常に軽量で簡素な木造建築だったため、沖縄に毎年やってくる巨大な台風や、シロアリの被害にはとても無力でした。
台風が来るたびに、多くの規格家が屋根ごと吹き飛ばされたり、倒壊したりしたと言われています。

💡ここから現代の「コンクリート文化」へ
台風で何度も家を壊され、苦しい思いをした沖縄の人々は、次第に「台風に負けない頑丈な家」を強く求めるようになります。
これが、現代の沖縄に鉄筋コンクリート(RC造)の住宅や、風を通す「花ブロック」を使った建築が定着していく最大のきっかけとなりました。

規格家は、決して快適な住宅とは言えなかったかもしれませんが、焦土から命を繋ぎ、今の沖縄の街並みを作る原点となった、歴史的にとても重要な「家」だといえるでしょう😌🏠

これが、戦後の沖縄の復興における「住まい」の原点です。
今の美しいリゾート地として広がる沖縄とは思えない光景が広がっていたんですよね。


 🕊️6月23日、私たちが受け取るべきバトン🕊️ 

6月23日は、日本軍の組織的な戦闘が終結したとされる日です。 
この日、沖縄では正午の時報が流れ、1分間の黙祷(もくとう)を捧げます🙏🏻
※内地では時報は流れません。

近年では、内地企業や島ナイチャー(内地からの移住者)も増え、黙とうを捧げる習慣がなくなりつつあるのが現状です。
沖縄在住者の中には、6月23日が何の日かすら知らない人もいます。

今年の「慰霊の日」は、いつもと同じ変わらない日常として片付けるのではなく、衣・食・住の揃った「今ある日常の尊さ」について、考えを巡らせてみませんか?😌🌱

最後までお読みいただき、ありがとうございました。 



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